北京の新聞で見る歴史のページ「黄河のほとり。中国のユダヤ人の末裔」 |
| 北宋の始め、100人のユダヤ人コミューンが開封郊外に住み着いた。 今はまったく同化してしまった彼らの歴史を紹介する。 |
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北宋の始め、当時の世界最大100万人都市・開封に西方からユダヤ人の集団 100余り人がやってきた。当時の開封にはすでに商売のため住み着いているアラビア人や
ペルシャ人も多くいたので、開封の人々にとっては物珍しいこともなかった。 当時の北宋政府は西のモンゴルと北の金と敵対していたため、同じ西からやってきた彼らにも
警戒を怠らなかった。そこでまとめて開封の郊外に住まわせる。遠すぎても目が届かなくて 不安だし、近すぎても危険、というわけである。 開封郊外に住み着いて二百年後、開封が金に攻め落とされたとき、開封のユダヤ人たちは 皇室とともに南に行かないことを選択した。100万人の国際都市は一気に5万人に減少し、 今日に至るまで二度とその繁栄を復活させることはなかった。その開封市内にユダヤ人たちは 初めて入り、安住の地を得る。その場所は今の開封市内の教経胡同(=横丁)と いわれているところである。ここに初めてユダヤ協会が建てられる。 元代には開封ユダヤ人たちは第二階級の色目人の中に入れられた。しかしこれがよかったの かどうかはわからない。というのは1世紀余りで明の時代になると、モンゴル人、色目人には 厳しい制限が加えられ、これが開封ユダヤ人コミューンの中国人完全同化に つながってしまったからだ。「大明律」の「蒙古人色目人婚姻条例」により、 明国領土内のモンゴル人、色目人は「胡服、胡語、胡飾の一切を禁じ、結婚は 必ず漢人とすること」と規定されたからである。それまで自分たちの言語と習慣、宗教を 守って生活してきた人々は否応なしに同化が進んでいく。社会に溶け込むため、 姓を中国風に買えることもこのときに行われた。「シバ」氏は「石」氏に、「ヤダン」氏は 「艾(あい)」氏に、という具合である。そして明の鎖国政策により、 西との連絡も絶たれてしまった。 中国に来たユダヤ人が完全に同化してしまったことは日本でも紹介されているのを 読んだことがある。私が読んだものには同化してしまった理由については 「中国が居心地よかった」から、もしくは「不思議だ」といった結論であった。 この「大明律」のことはあまり知られていないのではないか。考えてみれば、世界中で 数千年もその文化と宗教を守って暮らしているユダヤ人たちが中国でのみ、同化してしまった にはそれなりの理由があったということである。 しかし、同化されながらも明代は開封ユダヤ人コミューンにとっては最盛期だった。 コミューンの人口は千人を越え、富を持ったものが多かった。商売に長け、教育に熱心で 歴代20人もの進士を輩出している。 祖先の地を離れ、自分たちが「ユダヤ」人という民族であることもいつしか忘れられていた。 17世紀の始め、艾田という名の開封ユダヤ人が会試(進士になるための試験)に応ずるため、 北京に受験しに行った。このとき、宮廷に仕えているイエズス会宣教師のマテオリッチを 慕って訪ね、二人は話をしている。マテオリッチはこのヘブライ語が話せる不思議な 男性にびっくりする。そして話しているうちに彼らがユダヤ人の末裔であることに気がつく のである。驚いたマテオリッチは数回に渡り、調査のためのスタッフを開封に派遣し、 ついに自分の判断が正しかったことを実証した。 1850年開封のユダヤ教会最後のラビ(ユダヤ教の聖職者)がなくなった。従来の ラビは弟子を取り、世襲制であった。しかし本国との交流を絶たれ、中国文化に同化しつつ
あった開封ではラビも知識が浅はかであったのか若者を惹きつける力がなくなっていた。 そして教会も洪水で破壊されたあとは修理する人もなくなっていた。 |
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なくなった夫の趙平宇の遺影を掲げた崔淑萍とその子供たち。 |
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教経胡同の今。 |
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右後ろの少年が若きころの趙平宇。 |
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